第4章:奪われた光(1)
 朝、早く起きて朝食を摂り、午前中は大陸史や世間の常識、勇者に相応しい立ち居振る舞いを学ぶ。昼食後は騎士団の誰かと手合わせをして、コキトの魔法講座。夕食の後には風呂で一日の汚れを落として、布団に潜り込む。
 最初の一ヶ月こそ、故郷の村が燃え滅びる夢にうなされて、夜中に何度も飛び起きた事はあったが、
『人は辛い思い出を薄める事で、精神の安定をはかるんだよ』
 と手の内で魔律晶をもてあそびながらぼやいたコキトの言う通り、段々と悪夢に悩まされる頻度は減っていった。
 山奥の村では使う事の無かった、アナスタシア通貨イージュを払って、街で買い物をする事も覚えた。
『勇者エルストリオの娘が城で勇者としての教育を受けている』という噂は城下にまで広まっていたが、人々はその姿形まで伝え聞いている訳ではないようだ。シズナが顔を隠さずに堂々と街を出歩いても、特に騒がれる事も、名を訊ねられる事も無く、単にお遣いにきた若い娘、として扱われた。
 城下を歩けば、色んな人間を見る。今日の夕飯を選ぶ主婦、新しい服を探す同世代の少女、家の壁の修理でもするのか木材を求める男性、薬草茶ハーブティーに見入る老婆。手を繋いで微笑み合いながら歩く恋人同士。母親が小さい子供をおぶり、父親が荷物を抱えて歩く、親子連れ。
 そんな平凡だが幸せそうな光景が目に入ってくると、必然的に思い出す事がある。
『俺は、シズナと一緒に外の世界で幸せになりたい』
 そう告げて口づけを降らせた愛しい人の顔を思い出す。真摯な紫の瞳を脳裏に描けば、今、独りで歩く虚しさが胸に迫る。
 叶わなかった夢想が渦巻き荒ぶる胸をおさえながら、シズナは歩を早めて、平穏な城下街を足早に歩いてゆくのだった。

 それでも、そんな生活が数ヶ月続く内に、シズナもアナスタシアでの暮らしに徐々に慣れていく。
 だが、変化は確実に彼女の運命を蝕みつつあった。

 それは、季節が移ろい寒さが本格的になったある日、訪れた。
 朝食の時間に、ライ麦パンとかぼちゃのポタージュに手をつける気が起きず、デザートに盛られたオレンジだけを食した。
「どうされました、シズナ様?」
 アティアが不思議そうに首を傾げる。
「お口に合いませんでしたでしょうか。お好きだと思っていたのですが」
「うん、嫌いになった訳ではないんだけど……」
 どうしても、麦や野菜の匂いが鼻について食欲を減退させたのだ。
「作り方が変わったのかもしれませんね。後で厨房の者に訊いてみます」
 そう言って、アティアは食事を下げたが、くらくらと視界が回るような気持ち悪さまで出てきて、その日の座学も訓練も身に入らない。
「体調が悪い時に魔律晶を使えば、思わぬ事故を引き起こしかねない。今日はここまでにしよう」
 シズナの変調を察したコキトは、そう言って魔法講座を切り上げた。
 寒気はしないので熱がある訳ではなさそうだが、身体がだるい。よろけながら自室へ戻り、アティアが夕食を用意してくれるのを、ぐったりと椅子にもたれかかりながら待っていたシズナだったが、目の前に鶏肉のローストが置かれた途端、脂の匂いに吐き気がこみ上げて、蹴るようにして椅子から立ち上がり、しかし目眩に襲われてその場にしゃがみ込んで、胃の中の物を吐き出す羽目になった。
「シズナ様!?」
 アティアが驚きに目を見開いて駆け寄ってくる。大丈夫、と返そうとしたがかなわず、支えてくれる侍女の腕に身を預けたまま、シズナは意識を手放した。

 ぱちん、と暖炉で火の爆ぜる音と、周りで何かを話し合う人々の声が耳に届いて、シズナはゆるゆると覚醒に導かれた。しばらく状況がわからずぼんやりとしていたが、ある瞬間に自分を取り戻す。
 いつものベッドの上に横たわっていた。厚手の毛布がかかっているのは、身を冷やさないようにアティアが気遣ってくれたのか。
 ベッドを取り囲むようにして、アティアとミサクが、見知らぬ女性と話し合っている。女性の身にまとう白衣から、彼女がアナスタシアで医療を司る職業の人間だと、シズナは理解した。
「あっ、シズナ様、気づかれましたか!」
 アティアが黒目がちな瞳に心配そうな色を満たして、こちらの顔を覗き込んでくる。大丈夫、と返して身を起こそうとしたが、上手く舌が回らず、身体は鉛のように重くて、腕を動かすのも億劫だ。
「無理はなさらないでください、大事なお身体なのですから」
 侍女はシズナの肩を軽く叩くと、サイドテーブルに置かれた水差しを手にして、シズナの口を湿らせる程度に水を与えてくれた。
 深く呼吸を繰り返しながら、思い返す。夕飯をとろうとして、運び込まれた鶏肉の匂いに吐き気をもよおして実際吐き、そのまま倒れたのだ。
「すまなかった、シズナ」
 女医師と話し合っていたミサクがこちらを向き、深々と頭を下げる。謝られるような何かをしただろうか。目をしばたたくと、
「貴女の身体を慮っていなかった。その……」
 ミサクは言い出しにくそうに口ごもる。自分は気づかぬ内に重い病でも患っていたのだろうか。相変わらず状況が呑み込めないシズナに、「シズナ様」とアティアがこちらの手を両手でそっと包み込んで、告げた。
「大丈夫、ご病気ではありません。むしろ喜ばしい事ですよ。新たな命が生まれるのですから」
 ぽかん、と。
 シズナは天井を見上げたまま口を開き、しばし侍女の言葉の意味を模索した。そうして、理解した瞬間、驚きに目をみはる。
「勇者様は身ごもっておいでです」
 女医師が、義務的に淡々と告げる。
「丁度、不調に悩まされる時期を迎えられたのでしょう」
 故郷にはシズナより年下の子供がいなかったが、人が子を成す段階については、大人になる為の知識として母イーリエから聞かされた。子を産むまでに、食べ物の匂いに過敏になったり、身体がだるくて仕方無い時期があるとも。
『私はこれこの通り、丈夫だけが取り柄だからねえ。お前を産む時もそんなに苦労はしなかったさ』
 母はそう軽快に笑って、筋肉のついた腕をばしんと叩いてみせたものだ。
 その話を聞いていた自分が、新しい命を授かったというのか。しかも、思い当たる相手はただ一人しかいない。
(アルダ)
 目を閉じて、愛しい人の顔を思い出そうとする。しかし、十数年共に笑い合ったはずの、穏やかな少年の姿の記憶はすっかり薄まり、代わりに、惨劇の日の、酷く冷えた紫の瞳しか浮かんでこない。
(アルダ)
 子供が出来た、と告げたら、彼は何と答えるだろうか。想像がつかない。伝える方法も、彼がいる場所すらもわからない、今となっては。
「とにかく」
 金色の睫毛が震えてじんわりと濡れ始めたところに、ミサクの声がかかり、はっと目を開く。まだ重たい頭を傾ければ、青の瞳が気づかわしげにこちらを見つめていた。
「勇者としての修業は一旦中断だ。今は貴女自身の身体を大事にして、静かに過ごして欲しい」
「そうですよ、シズナ様」
 アティアがやんわりと微笑み、「起き上がれますか?」と背中に手を回してくれる。その手に任せるまま、シズナはゆっくりと身を起こす。すると、湯気を立てる粥が差し出された。
「ご不調は仕方がありませんが、きちんと栄養も取らなくては、お腹の子に障りますからね。今は少しでも召し上がってくださいな」
 中身のほとんど無い薄い粥だったが、ほんのりと塩の香りが漂ってくる。これくらいなら食べられそうだ。今更お腹がくうと鳴き、シズナは皿を受け取ると、スプーンでひとすくいして、口に運ぶ。塩以外の味付けが無い粥は熱を持ったまま、空っぽだった胃に滑り落ち、じんわりと身体の中からシズナを温めてくれた。
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