第1章:血染めの祝福(4)
 そこから先は、悪夢だった。

 たちまち空が夜中のように暗くなったかと思うと、ぼうっと音を立てて、村のあちこちから火の手があがった。黒と赤の下、何か獣のような生き物が駆けてくる気配がする。それもひとつふたつではなく、大勢。それらは炎の中を逃げ惑う村人達に容赦無く飛びかかり、大きな悲鳴を量産した。
 一体何が起きているのか。混乱するばかりのシズナに、何かが飛びかかってくる。鋭利な刃のようなもので左腕を引っかかれて倒れ込み、痛みに顔をしかめた拍子に、手にしていた紫苑のブーケはすっぽ抜けてどこかへ消えた。
 火の手が勢いを増したようだ。煙が目に染みて痛い。喉を突いてむせ込む。愛しい人の姿を求めて地面を這うように見えない視界を探った時、ぽた、と右手の甲に何かが落ちた。左手で拭えば、ぬるりとした感触が返る。
 ぎょっとして顔を上げ、シズナは更なる震撼で、最早言葉を失ってしまった。
 アルダだ。アルダが立っている。だが、その紫の瞳は、シズナに愛を囁いてくれた穏やかさを既に失い、意志の読めない仄暗さに満ちていた。
 そしてその傍らには、灰色の狼のような姿をした、しかし狼にしては大きく、吐く息の獰猛さも違う生き物が寄り添い、反対側にはユホが変化した若い女が、我が物顔でしなだれかかっている。
 名を呼ぼうとして、シズナは、アルダが握っている物に気がついた。右手には赤の剣。そして左手には、血の滴る何かをぶら下げている。そこから垂れた血が、自分の手に落ちたのだとシズナは理解し、それから、それが人の首であると理解した。
 誰のものなのか、知るのが怖い。だが、知りたい気持ちは恐怖を上回った。咳き込みながらもその首をまじまじと見つめ、シズナはひゅっと息を呑んだ。
 横様に傷の入った、開かれる事の無い目。シズナと同じはずの金髪は、赤に染まっている。
「と、さ……」
 言葉は声になりきらなかった。視界がぐるりと回って、シズナは受け身も取れずにしたたかに地面に頭を打った。
「さあ、魔王様」
 ぼやける視界と、ひどい耳鳴りの中、ユホのやたら妖艶な声がまとわりつく。
「この娘にもとどめを。それで勇者の血族は死に絶えます。貴方様の覇道を邪魔する者は、いなくなりましてよ」
「……必要無い」
 返されたのは、アルダの声だった。幼い頃から、声変わりをしても聞き間違える事の無かった彼の声だ。だが今、その声に抑揚は無く、絶対零度の冷たさを帯びている。
「俺が手を下さずとも、魔物が喰らわずとも、誰も来ないこの村の奥地では、やがては餓えるか凍えて死に至る。放っておけ」
「しかし」「くどい」
 不服そうなユホを、アルダがぴしゃりと黙り込ませる。いつも老婆とシズナの仲を心配して、何とか取り持とうと気を遣ってくれた彼からは想像のつかない、突き放した声音だった。
「新たな魔王に逆らうのか」
「……出過ぎた真似をいたしました、お許しを」
「わかればいい」
 アルダが踵を返す気配がする。村に満ちていた獣――ユホの言葉を借りるなら、『魔物』――も遠ざかってゆく感覚がする。
 行かないで、アルダ。
 願いは音にならない。たとえ声になったとしても、彼に届くとは到底思えない。
 ああ、きっとこれは夢だ。悪い夢を見ているのだ。目が覚めたらきっと、いつも通りアルダの笑顔が包み込んでくれる。
 しかし、炎と煙は否が応にも現実の感覚を突きつける。痛みに麻痺した目から、涙はとめどなく溢れる。そのまま、シズナの意識は闇より尚暗い深淵へと落ちてゆくのだった。

「――か。生きているか」
 誰かに呼ばれて、シズナはゆるゆると夢の無い眠りの底から引きずり出された。アルダの声ではない。両親のものでもない。一体誰だろう。目をしばたたいてぼやける視界を見つめていた碧眼は、唐突に正気の光を取り戻した。
 闇は去っていた。だが、周囲には、物の燃えた焦げ臭さと、狩りの時以上の血のにおいが充満していて、鼻腔を刺激する。
 まだ痛む頭をおさえながら身を起こせば、誰かの腕が背中に回され、支えてくれた。その腕の主を視線で辿る。
 見た事の無い人物だった。歳の頃はシズナと同じくらいだろう。少年ぽさを残した顔は端正で、空の青の瞳が短めな銀髪によく映える。
「貴女がシズナだな」
 知らない相手に名前を言い当てられ、思わず身を固くすると、少年は困ったように目を細めて、少しだけ口元をゆるめた。
「そうだな。外界と隔離されて暮らしてきて、いきなり知らぬ男に名を呼ばれては、戸惑うのも無理は無い」
 彼はもっともな台詞を言い、「立てるか」とシズナを促す。まだ膝ががくがく震えていたが、少年の腕にすがって、何とか地を踏み締める事は出来た。
 それから周囲を見渡し、シズナは絶句せざるを得なかった。
 悪夢の痕だった。家々は燃え落ち、広場には累々と死体が転がっている。炎にまかれて死んだ者だけではない。明らかに、『魔物』に喰いちぎられたと思しき腕や足もそこら中にあって、吐き気がこみ上げ、シズナは崩れ落ちるように屈み込んで、胃の中の物を全て吐き出す羽目になった。
「女性には、この光景はきつすぎるだろう。出来るだけ見ない方が良い」
 静かに背中を撫でてくれながら、少年が告げる。胃液すら出なくなって、目を潤ませ口元を拭いながらようよう身を起こすシズナに、手布を差し出しながら、少年が名乗った。
「僕はミサク。唯一王国アナスタシアの騎士団員だ」
「……唯一王国?」
 初めて聞く言葉に眉をひそめると、ミサクと名乗った少年は、
「そうか、やはり何も聞いていないのか」
 と視線を彷徨わせ、継ぐべき言葉を模索しているようだった。が、心が決まったのか、シズナに向き直る。
「このシュレンダイン大陸には、アナスタシアしか国が存在しない。唯一の王家が、大陸全土を治めているんだ」
 シュレンダイン、アナスタシア。両親も教えてくれなかった外界の存在にシズナが混乱している事も、ミサクは承知の上の様子で、話を続ける。
「王国はずっと、この村の存在を把握していた。勇者の血族が住む地として」
「勇者の、血族?」
 先程からおうむ返しにしか言葉を発していない事を自覚しつつも、今のシズナには、彼から話を聞くしか現状を把握する術が無い。ミサクはシズナの問いかけに軽く頷いて、衝撃の事実を告げた。
「君の父エルシは、かつて、アナスタシアを脅かす魔王を倒した勇者エルストリオだ」
 ぽかん、とシズナは口を開けて呆けてしまう。
『さあ、魔王様、この娘にもとどめを。それで勇者の血族は死に絶えます』
 炎の中でユホが放った言葉が耳の奥に蘇る。魔王、勇者。それは御伽話としてイーリエが幼きシズナとアルダに語ってくれた童話だ。
『姫をさらった悪い魔王は、勇者の聖剣によって倒されたのでした。めでたし、めでたし』
 だが、現実は御伽話の通りではなかった。むしろ逆だ。魔王と呼ばれたアルダの剣によって、勇者だったという父の首は、胴体と永遠に泣き別れた。
 身体の震えが止まらない。歯の根が合わなくてがちがちと耳障りな音を立てる。
「……皆は」
 ようよう出てきた言葉は、切なる願いを込めた問いかけだった。
「村の皆は。無事な人はいるの?」
 その質問に、ミサクの青の瞳が曇る。
「僕の部下が村中を捜索したが……」
 そうして彼は顔を伏せ、首を横に振る。それが答えだ。
 シズナは限界まで目を見開く。震えは、恐れから、怒りのそれに代わる。
 何故だ。
「どうして」
 勇者の血族の存在を知っていたなら、何故。
「どうしてこうなる前に、助けにきてくれなかったの!?」
 シズナの血を吐くような叫びは、虚しく灰色の空に吸い込まれる。彼女の嘆きを受け止めたかのように、静かに空が泣き出した。
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