第1章:血染めの祝福(2)
 夕餉の支度の煙が煙突から立ちのぼっている。三人家族が暮らすには充分な家の扉を開けば、野菜スープに浮かべたハーブの香りが、ふうわりと鼻腔に滑り込んできた。
「お帰り、シズナ」
 台所に立ち、鍋の中身をお玉でかき混ぜていた母イーリエが振り返る。髪と瞳の色は違うが、顔立ちはシズナが完全に母親似である事を示している。
「もうすぐご飯が出来るから、父さんを呼んできてちょうだい」
「はあい」
 シズナは少しだけ間延びした返事をして、アルダと繋いでいた右手とは逆の手に握っていた木剣を壁に立てかけ、奥の部屋へ静かに歩み入る。たちまち、食べ物とは違う金属のにおいが漂ってきた。
「父さん、ご飯よ」
 ああ、と低い応えが返る。窓際の机に向かい、かつ、かつ、と小さな音を立てていた中年男性が、手にしていた銀細工と工具を静かに机上に置いた。
 窓から射し込む夕日が、金色の髪を淡い赤に染める。男性は椅子を引いて立ち上がろうとしたが、少しよろめいたので、シズナがすぐさま駆け寄って、父の腕を取り支えてやった。
「いつも悪いな、シズナ」
 そう笑みかける父エルシの顔は、シズナの方を向いてはいるが、目の位置には横一直線に大きな傷が走り、開かれる事は無い。
 両親は、十六年前、赤子のシズナを抱いてこの村にやってきたという。その時から既にエルシはこうで、大黒柱の目が見えなくて暮らしてゆけるのかどうか、村人達は気を揉んだらしいが、普通の女性よりひとまわり体格の大きいイーリエが力仕事に才を発揮し、畑を耕し野菜を育てた事で、家族の食べ物はまかなわれた。
 また、エルシは盲目ながら手先の感覚だけで銀細工のアクセサリや飾り小物を器用に作り上げ、金にはならない――そもそも外界へ降りないこの村に金銭は意味を成さない――が、村人達の小さな楽しみにした見返りに、生活に必要な諸々をもらったので、シズナの記憶にある限り、一家が生活に苦しむ事は一切無かったのである。
 父の腕を引き、足元のわずかな段差を注意喚起しながら食卓へと導く。父が卓につき、シズナも斜め向かいに座ると、母が湯気を立てるスープ皿と蜂蜜の入ったルイボス茶のカップを卓上にみっつ並べ、真ん中にほかほかのロールパン入りの籠を置いた。
 そうして母も席につき、三人で「いただきます」と手を合わせて、夕飯が始まる。いつもの光景だ。
 母が育てた葉物と根菜たっぷりのコンソメスープを口に含む。素材の味を活かした美味さがたちまち口内に広がって、シズナは自然と笑顔になる。こまごまとした細工が得意な父に対し、母の農作業は豪快で、「エルシとイーリエは男女を間違えて生まれてきたんだあな」とからかわれ、母がそれを口にしたオーキド老の頭をべしんとはたいた事がある。その時、老はくらくら目を回していたので、冗談半分本気半分の力がこもっていたに違いない。
 スープで身を温めると、籠に手を伸ばし、ロールパンをひとつ手に取る。真ん中でちぎればまだふかふかのパンは綺麗に割れた。
 ほんのりとした甘さを帯びるパンを食べると、ルイボス茶を口に含んで飲み下す。母の愛情が詰まった食事に、腹の底から満足感が湧き上がって、シズナがにこにこしていると。
「シズナ」
 唐突に父に名を呼ばれ、相手に見えていないとわかっていながらも、少女は小首を傾げた。
「こないだ、お前とイーリエが畑に出ている時に、アルダと話をした」
 少年の名前が出てきた事と、父の声色が真剣味を帯びていたので、これは重要な話であると判断して、シズナは姿勢を正す。父の傍らの母も、夫の口から出てくる話の内容を知っているのか、唇を引き結んでいた。
「アルダは十八だ。お前も十六。新たな家庭を持つのに不足のある歳ではない」
 どきり、と心臓が大きく脈打つ。シズナの予感を確かなものにするかのように、父は言を継いだ。
「アルダに言われた。お前を嫁に欲しいと。私達に本当の父母になって欲しいと。私は見えていないが、恐らく頭も下げていただろう」
 アルダが父に乞うた。自分と共に生きる道を望んでくれた。その事実が強く胸を打ち、喜びの大波となってシズナの中に溢れる。彼は本気で、シズナを生涯の伴侶として選んでくれたのだ。それを思うと、目の奥から溢れてくるものがある。
 父がゆるりと微笑み、母が、「良かったね、シズナ」と言いながら、女としてはごつごつした手を伸ばして、くしゃりと頭を撫でてくれる。それが呼び水となって、シズナの涙腺はとうとう決壊した。
 両親も祝福してくれるなら、自分は迷わずアルダを選ぼう。ユホは嫌な顔をするかもしれないが、これからは本当の家族になるのだ。アルダの為に、歩み寄る努力もしよう。
「あり、がとう」濡れた頬を手で拭いながら、シズナは両親に向けて低頭する。「ありがとう、父さん、母さん」
「ああもうまったく、いい娘が」
 母が席を立ち、逞しい腕の中にシズナを収めて、あやすように揺らす。
「家庭を持つって事はね、一人前の大人になるって事。もう子供みたいに泣くんじゃあないよ」
 優しく降ってくる言葉に、シズナの目から更なる涙が零れ、しゃくりあげながらも少女はしっかりと頷いた。

 青白い満月の光が、カーテン越しにも薄く差し込んでくる。まんじりとしない秋の夜長に、シズナは自室のベッドの上で、何度目かわからない寝返りを打った。
 寝つきは良い方だった。しかし、夕飯の席での両親とのやり取りを思い返せば、勝手に心拍数が上がって、目はしっかりと冴えてくる。
 アルダのお嫁さんになるのは、幼い頃からの夢だった。いや、最早当然の流れとしてそうなるものだと信じていた。だがそれが現実味を帯びると、こんなにも胸躍るものだったのか。
 母から料理を習っていて良かった。父の銀細工も傍で見ていたから、父ほど本格的ではないにせよ、村人達を楽しませる程度の物は作る事が出来るようになるだろう。そう考えた所で、いや、と思いを転換させる。
 アルダは外界に住もうと、事あるごとに言っていた。その夢を果たすには、村を出てゆかねばならない。両親やユホを置いてゆくのだろうか。それとも共に降りてゆくのだろうか。
 だが、彼らは自分達子供らが知らない、外界で暮らせない理由を抱えてこの村へ来たのだ。一度離れた場所へ戻る事をよしとしてくれるだろうか。
 ぐるぐると考えは巡り、一向に答えを弾き出してはくれない。明日アルダに会った時、きちんと話をしなくてはならないだろう。嘆息して、もう一度寝返りを打った時。
 かつん、と。
 窓に何かが軽く当たった音を聴いて、シズナは身を起こし、ベッドから降りた。裸足のまま窓際へ近寄り、カーテンを軽く引く。そして目を見開いた。
 月光に照らされる紫の髪。薄い唇が笑みを浮かべて『シズナ』と呼んでいる。
「アルダ!?」
 驚きの声をあげつつ窓を開け放つと、少年は片目を瞑り口の前に人差し指を立てながら、窓枠を乗り越えて室内に入ってきた。
 一刻も早く会いたいと思っていた相手が、こんな夜中にやってきた事に戸惑いを隠せず、シズナが目を白黒させていると、アルダは静かに窓を閉め、「ごめん」と言いながらもその腕で少女を強く抱き締めた。
「エルシがうちに来てくれたよ。本当は、俺の口からきちんと君に言おうと思っていたんだけど」
 耳元で囁く声に、心臓は速度を高めてゆく。
「シズナに話を伝えてくれたって聞いた。ユホの事は心配するな、とも言ってくれた。それを聞いたら、居ても立ってもいられなくって。早く俺の想いをシズナに伝えたくてしょうがなくなった」
 唖然と半開きになる少女の唇に、少年の唇が触れる。
「シズナ」
 甘い吐息が至近距離で吹きかけられた。
「君が好きだ。ずっとずっと好きだった。俺のお嫁さんは、シズナ以外考えられない」
 知っている。知っていた。何度も遠回しに聞き、口づけも交わしたが、直球の告白を受けるのは、恐らくこれが初めてだ。
「シズナは?」紫の瞳がまっすぐにこちらの目をのぞき込んでくる。「俺の事をどう思ってる?」  返事は、すぐに出なかった。返す言葉はただひとつなのに。決まりきっているのに。いざその時を迎えると、喉の奥で詰まって、放たれるのに酷く時間がかかる。震える唇を叱咤して、「私も」シズナはその言葉を紡ぎ出した。
「好き。アルダが大好き。ずっとアルダのお嫁さんになりたいと思ってた」
 少年が満足げに微笑み、「じゃあ」と再び口づけを落とす。
「今すぐ君をお嫁さんにしたい」
 心臓が一際大きく跳ねた。その言葉の意味がわからないほど、シズナも幼稚ではない。あまりにも唐突で、心拍の音が耳の奥で響いているのが自覚出来る。
 だが、躊躇いは無かった。
「いいよ」
 両腕を伸ばし、少年の首にすがりつく。
「アルダのお嫁さんにして」
 それ以上の言葉は必要なく、月光に照らされる影が重なり合う。白いシーツの上に少女の金髪が広がり、少年が、三度目の口づけを少女の唇に降らせた。
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