03:月なき夜に捧ぐ幻想哀歌


 母の顔は、もうよく思い出せない。
 ただ覚えているのは、抱き締めてくれた腕。名を呼ぶ優しい声。そして、家のリビングで、頭を撃ち抜かれて血溜まりに沈んでいた姿。
 昔の話だ。
 数百年単位で。

 コクピットに差し込む光と、どこからか聴こえ来る歌で、ユーリの意識は覚醒を促された。どうやら、『チェルノボーグ』のシステム調整チューンをしている内に、うたた寝をしてしまっていたらしい。南中近くにあったはずの太陽は既に西に傾き、開かれたコクピットを赤い目映さが直撃している。
 日焼けをしていないだろうか。そう考え、我ながら呑気な事をと自嘲する。
 それから『チェルノボーグ』の首を巡らせて、左側の画面に歌声の主を映し出す。エルシスが、そこそこ上手に音程のとれた鼻歌を吟じながら夕食の準備をしていた。
 ここ数週間の内に当たり前になった、いつもの光景。エルシスが傍にいる。それだけで、常に独りでぴりぴりしていた感情が鎮められ、安心して昼寝などをする事が出来るようになっていた己の変化に気づき、少なからず驚く。それと同時、この歌がそんな心温まるエピソードには不似合いなものである事も、ユーリは知っていた。
 かつて世界が滅亡の大戦への道を歩み出した頃、流行った反戦歌だ。戦で子を喪った親が、我が子は苦の無き地で安寧に過ごしているだろうかと想いを馳せ、改めて喪失の寂しさを認識し、嘆く歌。
 エルシスはそれを、しばらく面倒を見てくれた老人に教えてもらったと語っていた。無形の文化遺産は、巨神機アトラスのような有形の遺産と共に、この時代にも残っているのだろう。そして、そのような歌を口ずさむ老人は、実際理不尽に子を喪った経験でもあったのだろうか。老人が既に亡くなっているそうなので直接訊く事は叶わないが、エルシスの名は、彼の死んだ孫のものだと、かつて聞いた気もする。
「あ、起きた?」
『チェルノボーグ』がメインカメラを動かす気配で、ユーリが目を覚ました事に気づいたのだろう。エルシスが鼻歌を止めてこちらを振り仰ぎ、鍋の中身をかき混ぜていたお玉を持つ手を振る。
「ご飯、もうすぐ出来るよ」
 その言葉に、ユーリは――相手には見えないのだが――僅かに口元をゆるめ、
「わかった」
 だが、声は短くそっけなく返して、『チェルノボーグ』のシステムを切った。

 わずかな野菜と固形調味料を放り込んだスープに、火で焙ったパン。それから、栄養価だけを重視して作られた携帯食品。食卓に並べるには寂しすぎるが、旅の身の上ならば、栄養摂取として充分な量と品だ。そしてそれは、二人が旅の途上に存在する集落に立ち寄って恩恵を施した、その対価に得たものである。
 村を逃げるように去った後、ユーリとエルシスは『世界の始まる場所』を目指した。バックパックを積める『チェルノボーグ』のスペースに白いバイクを収め、普段は『チェルノボーグ』で、日がな一日荒野をゆく。集落を見つけた時には、基本的に巨神機を降りバイクを駆って、訪ねて行った。
 この世界で、旧世代の貨幣は持っていてもほぼ意味をなさない。ほんのごく一部の、道楽をして暮らせるような人間は、上質な紙を使用しすかしや凝った意匠の描かれた紙幣に価値を求めたりもするが、庶民にとってはメモにもならない紙屑だ。彼らは、物品の提供にはその場で形になるものを求める。
 だから二人は、ユーリの卓越した射撃技術で、時には『チェルノボーグ』を動かして、村の畑を荒らす野獣を退治し、またあるいはエルシスが傷を負った者を癒して、労働に見合うだけの食料と、旅に必要な品々をもらった。
 物珍しい巨神機と、奇跡の術を目の当たりにした村人達の中には、是非うちに来てくれ、村に留まってくれ、と熱烈に望む者もいたが、自分達は目的のある旅の途中だから、と断って、村を後にした。必要以上には狩らない、癒さない、そして用が済んだらすぐに立ち去る。それが二人の暗黙の了解だった。深入りしては、あの、追い出された村のようになるのが、わかりきっていたから。
『世界の始まる場所』について、具体的な地名は二人とも知らない。ただエルシスが「西へ」と確信を持って言い張るので、『チェルノボーグ』に搭載されたコンパスの示す方角が間違っていない事を信じて進み続けた。
 三食を摂る時以外は基本的に延々巨神機に揺られ、夜は山間部に機体を潜ませ、眠りにつく。年頃の――実年齢や精神的なものがどうあれ、肉体的にはまさしく年頃の――男女が常に寝食を共にして、何か過ちでも起こるのではないかと、二人の旅を知る者がいれば、邪推をしても当然だろう。だが現実、二人の間にそのような事実は無かった。主にユーリの側が、線の細いエルシスにそのような甲斐性が無いと見なしている。更に万一エルシスがユーリを押し倒そうとする事態があっても、踏んで来た場数の違いが、必ずやユーリに勝利をもたらすだろうと信じているからである。
 しかし、エルシスと同道するようになってから、ユーリは深く眠りにつく事が出来る回数が増えた気がした。逆に言えば、浅い眠りの中悪夢を見て飛び起きる回数が減ったのだ。
 初めはそれを、共に異変を察知してくれる連れがいるからだとばかり思っていたのだが、十数日が過ぎる頃になって、閃く様に気づいた。これもエルシスの修復の能力スキルの恩恵ではないだろうか、と。本人も無意識の内に、身体的にだけでなく精神的にも、傍にいる相手を癒しているのかもしれない、と。
 全てはユーリの憶測だ。確証はどこにも無い。
 だが、目的の遠い旅の途上にあってもエルシスが見せる屈託の無い笑顔を、微笑ましく感じている自分がいるのは、確かだ。以前の自分だったら、先の見えない道でへらへらと楽天的に笑ってばかりで、と反発していただろう。ユーリの心情は明らかに変化を見せていた。
 もっとも、そんな事を本人に対して口にするのは、冷徹な心クールハートを氏に持つ自身の矜持プライドが許さないので、普段は今まで通り、感情表現の少ない冷静なユーリ・クールハートを保っているのだが。
 だから、食事を摂る時でもユーリはろくに会話を交わさず、黙々とスープをかき込むばかりだ。
「美味しい?」
 エルシスが小首を傾げて訊いて来たので、ユーリはちらと目線だけを上げ、平坦な声で返す。
「美味かろうが不味かろうが、腹に収まってしまえば同じだ」
「そう」
 褒めもけなしもしなかったが、エルシスは、それで充分だとばかりに笑み零れる。
「この前の村で、珍しい調味料を分けてもらえたから、試してみたんだ」
 確かに、今日のスープはいつもと違う味がした。少しばかりぴりっとしたこの辛さ加減は、恐らく黒胡椒だろう。現代では非常に貴重な品だ。人類が船舶で他の大陸へ乗り出した遙かなる過去、欧州ヨーロッパの王侯貴族が黄金と引き換えにしても欲しがったというのが、笑い話ではない程に。
 胡椒を使った料理は、ユーリも好きだった。日本ジャパンという国では『お袋の味』という表現があるそうだが、ユーリにとってのそれは、母の作る胡椒の効いたローストビーフだった。非常に絶妙な具合で火が通った上に、これまた絶妙な配分で胡椒をまとった肉を、急き込んで口に運ぶ幼いユーリに、
『そんなに慌てなくても、あなたの分は無くならないわよ』
 と、母はくすくす笑いを洩らしながら、次の肉を切り分けてくれたものだ。
 その母はもういない。いや、母だけではない。父も、友も。ユーリの存在を知る者はいるとしても、ユーリ・クールハートという人間の人となりまで理解してくれている者は、この世界にはもう存在しないのだ。
「ユーリ」
 思案は唐突に、手を握られる事で中断させられた。気づけば、決して大きくはない、下手をしたらユーリより指の細い両手が、こちらの手を包み込むように握り、黒い瞳は真っ直ぐに自分を見つめている。
「寂しいの?」
 また唐突に言い当てられて、ユーリは頬の筋肉と肩を強張らせた。接続者スタブは巨神機に接続すると、操縦者ドライバの心情まで読み取るのか。それとも、この少年自身に凡人以上の洞察力があるのか。
「……何を」ユーリは動揺を相手に悟られぬように、わざと目線を逸らしながら、反論を紡ぎ出す。「私がそんな弱音など」
「たまには言っても良いと思う」
 それを否定したのはエルシスだった。
「ユーリ、僕じゃ頼りないと思うのは仕方ないってわかってる。でも」
 黒の瞳は、ユーリのように陰も後ろ暗さも持ったりせず、真摯に視線をぶつけて来る。
「言葉を交わす事で、気が楽になる事やわかり合える事って、あると思うんだ」
 そんな真正面から自分を見るな。自分はそんな純粋さを向けてもらえるような資格のある人間ではない。日向を歩けないような戦いだってして来た。実直に手を握ってもらう事も出来ない。この手は血に汚れている。
 今まで平気だったのだ。これからも独りで平気だ。なのに、こうも心揺らぐのは。
「私は」
 本音が零れ落ちそうになる。だが、寸での所でユーリにそれを思い留まらせたのは、遠くから響いて来る駆動音だった。
 この重さは、バイクや車両の類ではない。巨神機だ。二人は本能とも言える反射速度で互いに手を離し、『チェルノボーグ』へと駆けて行く。コクピットに飛び込むと、ユーリの生体認証に反応して素早くシステムが起動し、エルシスが接続リンクして、黒い紋様が彼を覆ってゆく。
 辺りは既に暗くなっていた。今夜は新月で、月光に視界を照らす事は期待出来ない。『チェルノボーグ』に搭載された照明ライトだけが頼りだ。やがて、その照明が届く範囲に巨神機の影が映り込む。その姿を見て、ユーリもエルシスも息を呑んだ。
『チェルノボーグ』よりやや大柄で武骨な、だが、無駄の無い造形フォルムをした巨神機。その機体は、血より尚赤い真紅一色に染め上げられている。
 有色。即ちそれは、専用機。
 一体誰のものか。身構えるユーリの耳に、『ハアーッハハァ!!』と、全てを見下し嘲るような哄笑が、巨神機のスピーカー越しで届いた。
『久しぶりだなァ!』
 その声に聞き覚えがあって、ユーリは瞠目する。そんな、まさか。だが、その粗野な声と、久しぶりだという台詞が、ユーリの中の「まさか」の確率を確固たるものに変えてゆく。
『チェルノボーグ』のモニター右下に強制的な通信が届き、相手機のコクピット内が映し出される。映し出されたのは、操縦者の少年と、その背後の、赤い紋様に覆われた接続者の青年。それを見た瞬間、ユーリの予感は確信に変わった。
 自分達以外に操縦者と接続者が存在した事実に対してより先に、見覚えのあるその姿に驚きを隠せない。癖のあるあちこちはねまくった赤毛、鋭くまなじりの吊り上がった茶色の瞳。常に余裕をたたえて上がり気味だった口元に、今は狂気さえ宿っている。
『四百年ぶりかァ? 見知った顔に会えて嬉しいぜ』
 そばかすの浮いた顔をにたりと歪めて、少年はこちらの名を呼んだ。
『なァ? ユリア・クールハート』
「ブラッド・フェイオン……!」
 ユーリは唸るように相手の名を返す。エルシスが、ユーリがブラッドと呼んだ少年の言葉に違和感を覚えたのだろう。不思議そうに見下ろして来る視線には気づいているが、彼を振り返る心の余裕は今のユーリには無い。
「ユーリ。今、名前」
『知らねェのかよ、接続者のくせに?』
 ハ! と、ブラッドの嘲笑が『チェルノボーグ』のコクピット内に届く。
『そいつァユーリなんて名前じゃねェ。女らしい呼ばれ方が嫌で自分から捨てた名前が、ユリア・クールハート』
 宣告は、下された。
『巨神機を造り、オレ達操縦者を、てめェら接続者を生み出し、今の世界を造り出した、元凶の元凶、モーガン・クールハートの実の娘なんだよォ!』
 エルシスが驚愕して自分を見やる気配が伝わって来る。振り向く事は出来なかった。知られてしまった。その一念だけがユーリの心を支配する。
 そう、二十二世紀、父は世界的に有名な研究者だった。
 当時、世界には大小含めて数え切れぬ紛争が頻発し、各国が核を保有し、いつ何時それらが発射されて世界を滅ぼすだろうかと、人々は不安に駆られ、終末時計は刻一刻と針を進めた。
 それを抑止する力として、父は巨神機の開発に心血を注いだ。一機で戦士数十人から数百人の力を発揮する兵器の登場は、戦を変えた。くろがねの機体の前に、白兵戦は全く意味をなさなくなった。
 汎用の巨神機は接続者が無くとも動き、操縦者が戦闘不能になったり、機体が致命的な損傷に繋がるダメージを受けると、安全作動フェールセーフで停止する。父としては、操縦者の命を無駄に奪わない為の、人間の性善説に基づいた設計のつもりだった。
 だが実際には、ヒトは性悪説の生物であったのかもしれない。戦場のど真ん中で動かなくなった巨神機は、討ち取り、破壊し、蹂躙するには恰好の的。操縦者の命はほぼ百パーセント保証されなかった。
 結局世界は、核による脅し合いへの道を逆走する。父はそれでも争いの続く世界を憂い、枯渇してゆく地下資源と、砂漠化の進行する地上をどうにかして救えないかと、工学、化学、生命学、あらゆる方面から挑戦していた。
 そんな中、父を疎ましく思う連中の差し向けた暗殺者によって、母が殺された。父本人を狙うよりその周囲から切り崩していった方が、追い詰めるには容易いと、彼らは考えたのだろう。
 母を失った後、父は自分を連れて母国から亡命した。母国と対立関係にあった国へ。二十世紀に終わったはずの冷戦は、二百年以上の時を経て再発、いやそれ以上の険悪な状態に陥っていたのだ。
 その地で父は、核戦争は最早不可避と判断し、今現在ではなくその後の世界を救う手段を編み出した。核に汚染された世界が、それでも回復可能なレベルまで至った時に目覚めて、『世界の始まる場所』を目指し、そこで世界再生を行う存在を。操縦者とは別に巨神機を動かす権限を持ち、人を超えた能力を所有する、人為的に生み出された、人を超える人、接続者を。
 その接続者を世界各地の地下深いシェルターに眠らせ、更に、彼らを『世界の始まる場所』までサポートして連れて行く為、父は、特に戦闘力の高い個人の為に調整された巨神機を造り、その操縦者も冷凍睡眠コールドスリープにつかせた。接続者が目覚めた時、連動して彼らも目覚めるように。
 そうだ。自分達が眠っている間に世界は崩壊した。そして、接続者エルシスが目覚めたから操縦者自分も目覚めたのだ。それならば、他の接続者や操縦者が目覚めを迎えていたとしても、不思議ではない。
 だが、何故ブラッドが。母国を出た時、彼は操縦者ではあったが、専用機は無かった。いつの間に。
『ボサっとしてんなよォ!』
 ブラッドの声で、ユーリは長すぎる思考の回廊から帰還した。咄嗟に『チェルノボーグ』の身を引いて、赤い巨神機の右腕に装備された鋭利な刃をかわす。
『おめェ今、何でオレが専用機の操縦者かとか考えてたろ?』
 まるでユーリの思考を読み取ったかのように、ブラッドはクッと喉の奥で嗤う。頭が悪そうな喋り方をするのに、実際その中身の回転は、ユーリさえも追いつかない時がある。
『簡単な話だ。おめェら父娘が国を捨てて出て行った後、研究機関が、おめェの代わりの操縦者にオレを選んだんだよ』
 蛇のようにちろりと舌なめずりして、ブラッドは宣誓する。
『USA―125B「ブラッディペイン」』
 言うが早いか、名の通り血濡れの巨神機は刃を振りかぶった。二撃、三撃と続けて繰り出される攻撃を『チェルノボーグ』は避けて、『ブラッディペイン』の懐に潜り込む。がしゃん! という金属音と共に、エルシスの接続によって出力の上がった『チェルノボーグ』の突進を受けた『ブラッディペイン』はよろめいたが、三、四歩、たたらを踏むように後ずさっただけで持ちこたえた。やはり伊達に専用機ではないか。ユーリは唇を噛む。
『やっぱ、おめェ相手に正攻法は無駄かァ?』
 画面の中で、ひょう、と小馬鹿にしたように口笛を吹き、ブラッドは顔に刻む笑みを深くした。
『なら、こいつを使うしか、ねェよなァ!』
 その言葉と同時、『チェルノボーグ』の映し出すメインカメラから『ブラッディペイン』の姿が忽然と消えた。かと思うと、突然背後から衝撃を食らった。ユーリは奥歯を食いしばって耐えたが、エルシスが呻く。
 メインカメラを背後に回す。しかしその時にはもう敵機の姿は無い。
(どこだ!?)
 咄嗟に、メインカメラだけでなく補助サブのカメラも全てを巡らせるが、『ブラッディペイン』の姿を捉える事が出来ない。その間にも『チェルノボーグ』は次々と突かれ、斬りつけられ、黒い装甲が剥がれて暗い夜空に破片を散らばせる。どういう事か。さすがのユーリも平常心を失った。脳内の考えはぐるぐると同じ所を旋回して、心臓が逸り、吐き気が込み上げる。
『接続者を有するのは、おめェだけの特権じゃねえって事だァよォ!』
 ブラッドが勝ち誇ったように嗤う。それでようやくユーリの注意は、ブラッドの背後に映し出されている者の存在に向いた。
 覆っている光が、赤と黒の違いさえあれど、銀髪と黒い瞳。エルシスがあと五年ほど歳を経ればこのような顔立ちになるだろうという、整った外見。だが、大きな相違点は、エルシスが自分の思いを屈託無く表に出して喜怒哀楽を表現するのに対し、彼からは一切の感情が抜け落ちて、何も読み取る事が出来ない。それだろうか。
「ユーリ・クールハートに、不可能は」
『あるんだよォ!!』
 いつもの暗示の言葉さえ途中で否定される。横側からの衝撃に、ユーリとエルシスは同時に苦悶の声をあげた。
『イクぜェ、セロ!!』
『了解』
 戦いに昂揚しきったブラッドと対照的に、表情同様あくまで無感情に淡々とした様子で、セロと呼ばれた接続者は応える。直後、真正面に『ブラッディペイン』が出現し――物質の瞬間転移、それがセロの能力なのだろう――、鋭い突きを繰り出した。
 必殺撃はコクピットまで達した。小規模な爆発が起き、思わずレバーから手を離して目を瞑った瞬間、脇腹に何か固く鋭利な物が突き刺さる感覚があった。
「うあああああっ!!」
 その叫びが自分の口から迸ったものである事実を、ユーリはしばらく自覚出来なかった。目を開き視線を落とせば、コクピットが裂け、割れた破片が自分の左脇腹に深々と刺さっている。
 視覚が認識した途端、激痛が襲い来た。意志とは関係無く猛烈な吐き気に見舞われ、さっき胃に収めたものと一緒に血を吐き出す。
「ユーリ、ユーリ!」
 一瞬にして大量の血液を失ったせいだろうか。必死に呼びかけるエルシスの声がやけに遠く聞こえた。心臓部に損傷を食らった『チェルノボーグ』は安全作動が発動して、システムは完全に沈黙している。
 死。その単語がかすむ脳裏を横切った。死ぬのか、自分は。
 ぼんやりとした視界の中、『ブラッディペイン』のコクピットハッチが開き、接続を解いたブラッドの接続者が表に姿を現すのが見えた。
「来い、ナンバー6、セイス」
 それがエルシスを指す名前なのだと、ユーリの今の思考回路では思い至る事が出来なかった。
「『世界の始まる場所』で重要な役目がお前を待っている。我らと共に来い」
「……君も」
 エルシスは、彼にしては険しい瞳で相手を見据える。
「接続者だよね。どうして君がその役目を果たさないの」
「セロは試作品プロトタイプだからなァ」
 疑念には、セロと呼ばれた接続者自身ではなく、ブラッドが答える。嘲笑と共に。
「試作品は中途半端で使えねェ、って言われたんだよ」
 エルシスは沈思し、それから、固い声で問いかける。
「僕が行けば、ユーリを見逃してくれる?」
「それは俺の判断する所ではない」
 セロの機械的な返答の後を、ブラッドが受け取る。
「まァ良いだろう。無抵抗の相手なぶっても、面白くもクソもねェからな」
「……信じさせてよ」
 エルシスは念を押すように言うと、自ら『チェルノボーグ』との接続を絶った。黒い紋様が消える。
 そして彼は、「ごめん、少しだけ我慢して」と前もって詫び、ユーリの身体から突き刺さった破片を抜き取った。激痛に、飛びかけていた意識が急速に現実に戻る。奥歯を噛み締めて、悲鳴をあげるのだけは我慢した。
「ユーリ、ありがとう」
 エルシスがユーリの傷口に手を添えた。温かい光がコクピット内に満ちる。傷が修復され、終わりの無い痛みが消えてゆく感覚を、ユーリは実感する。ただ、失われた血まですぐに戻る訳では無いようだ。貧血でくらくらして、ぐったりとシートに背を預けたまま、動く事が出来ない。
「君と一緒なら、この荒れ果てた世界のどこまでも行ける。そう思ってた」
 行くな。そう言いたかった。だが身体は全く言う事を聞かず、指一本動かす事さえ億劫である。
 震える唇に、一瞬。
 エルシスの唇が重なった感触がした。
 こちらは血だらけで鉄錆の味しかしないだろうに。馬鹿ではないか。心の中で苦笑している間に、エルシスはユーリに背を向け、『チェルノボーグ』のコクピットを出て、『ブラッディペイン』へと飛び移る。
 行くな。
 そう心で叫ぶ声は届かず、三人は『ブラッディペイン』と共に姿を消し、後には、月無き宵空の下、暗闇の中、ユーリと、二度と動かなくなった『チェルノボーグ』だけが残された。
 また、独りになった。
 ユーリの頭の中を駆け抜けるのは、母の最期の姿。
 かあさん、かあさん。叫んでも叫んでも、母はもう返事をしてくれない。起きない。動かない。
 とうさん、かあさんが。かあさんが。
 凄惨な現場から逃れるように、父はユーリの目を手で覆い隠し、腕を引いて走り去った。
 その父ももういない。
 独りは慣れた。慣れきったはずだ。なのに、両目から溢れてこの頬をとめどなく伝う、血ではない液体は一体何だ。
 脇腹に残る鈍痛よりも、心が。無理矢理引き裂かれたようにじくじくと痛んだ。

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