夏の終わりの夜の夢は

「ねえ、あたし、キレイ?」
 平成最後の夏の終わり。
 夜道を歩いていたら、不意に背後からかけられた、懐かしい、懐かしすぎるフレーズ。
 途端、それまでこらえていた感情が水分の形を取って溢れ出し、しゃくりあげながら振り返れば、蛾の集る街灯の青白い光の下、夏なのにコートを着込んで、マスクをした長い黒髪の女性が、仰天した様子で私を見つめていた。
「ちょっ、ちょっと! どうしたのよアンタ!?」
 想定外の反応に、お決まりのパターンを続ける事も忘れてしまったらしい彼女は、マスクをはぎ取り、恐怖を煽る為にべっとりと口紅を塗った、ひとより裂けた口をぱくぱくさせつつ、こちらに向かってすたすた近づいてきた。
「そこ、『キレイです』って答えて、あたしが『じゃあ、これでもキレイ?』って怖がらせるところでしょ!? 何でそれやる前から泣いてんのよ!? 予定狂うじゃないの!」
 三連続でキレ倒す彼女の胸に取りすがり、
「だ、だって」
 ああ、鼻水も出てきた。鼻声になっているのを感じながら、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出す。
「平成も、終わるのに、あなたがまだ、頑張って、らっしゃるのが、嬉しくて」
「ッハアーーーーーー!?」
 彼女――昭和の都市伝説の代表格、口裂け女は、濃い茶色のシャドウを塗った目を見開いて、素っ頓狂な声を夜闇に迸らせた。

 平成最後の夏の終わり。
 私は彼氏にフラれました。

『平成が終わるってのに、昭和生まれのババアとなんか付き合ってられねえよなあ!』

 平成元年生まれの彼はそう、女子を交えた平成生まれの友人達とゲラゲラ笑い合って。
 昭和六十三年生まれの私は、彼が平成十生まれの女の子の肩を抱いて繁華街へ去ってゆく背中を、呆然と見送る事しか出来ませんでした。

「それは完全にその男が悪いわよ! あんたに非は、一切! 無い!!」
 何故かやたら親切な口裂け女さんは、私がひとしきり泣き止むまで、コートが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになるのも構わず、ぽんぽんぽん、と軽く頭を撫でてくれて。私がフラれた話を聞くと、自分事のようにキレてくれて。
 ちんちりちんと秋の虫が鳴く、人気の無い公園のベンチに一緒に腰掛けて。近くのコンビニで買ってきたラムネ瓶二本の内、片割れを私に差し出し、受け取ると、自分もすぽんと音を立てて蓋を開け、びぃ玉を瓶の中でくるくる踊らせながら一気に仰ぎ、ぷはっ、と息を吐き出した。
「ああ、やっぱりこれよねえ。最近縁日の屋台でもあんまり見なくなっちゃったけど、随分蓋も開けやすくなったものだわ」
 かーっ! と。笑顔を見せる様は、さながら金曜の夜にビアホールで一杯目のビールを飲んで、『美味い!』と声をあげるオッサンのよう。
「ほら、あんたも飲みなさいよ。遠慮しなくていいわよ、あたしの奢りよ。飲め飲め、飲んで嫌な事なんて忘れなさいな!」
 耳近くまで裂けた口の両端をにやっと持ち上げるけど、恐怖は感じない。たまたま飲み会の席で隣に座った、面倒見の良いお姉さんのようで、こくりとうなずき返すと、ラムネ瓶の蓋を開けた。すぽん、と景気の良い音と共に、しゅわしゅわラムネが溢れ出す。口に含めば、炭酸が口内を刺激し、甘く冷たい感覚が喉を心地良く滑り落ちていった。
 その様子を見ていた口裂け女――なんて呼び方は、ここまで親身になってくれた彼女に失礼だから、お姉さんと呼ぼう――は、不意に私の頭を抱き寄せ肩に乗せると、ラムネが少し零れてコートにふっかかるのにも構わず、
「大体ね」
 とん、とん、と、さっきみたいに軽く撫でてくれる。
「一時代が終わるくらいでごちゃごちゃ言う男なんて、小さい小さい! 誰と付き合っても、その器の小ささに飽きられて、ポイ、よ! 厄介な奴と別れられてせいせいした、くらいに思って忘れなさい!」
 そうは言ってもらえても、彼と過ごした日々の中には、たしかに楽しくて嬉しかった思い出もあって、簡単に記憶の宝箱から消えてはくれない。思い返せば、また涙が頬を伝う。
 それをお姉さんもわかっているのだろう。はあ、と大きな溜息をついた後、話題を変えようとしたのか、ぽつりと洩らした。
「昭和は長かったからねえ。今より色々と不便だったと言っても、良かったものもあるのよねえ」
 そうして彼女は、大きな唇を引き結んで、ハミングで短いフレーズを奏でる。
「知ってる? ザ・タイガース。野球じゃないわよ」
「あ、知ってます」私は頬を拭いながらこくこく首を縦に振る。「祖父が今もテープをよく聴いています」
「祖ッ父!!」
 お姉さんが目を真ん丸くした後に、ああー、と零しながら仰け反った。
「そうかあー、あんたの世代じゃあ、お祖父ちゃんが聴くかあー! あたし大ファンなのよ。聖子ちゃんもひろみも、美少女美少年だったわあ」
 今も充分キレイだし、かっこいいけどね。そう呟く横顔が、ふっと翳りを見せて。
「あたしなんて、怖がられるだけで、誰にもキレイって言ってもらえなかったから、若い頃は随分やんちゃしたものだわ」
 今もだけど、と自嘲する、公園の電灯に照らされた顔の陰影が、なんだかとても寂しそうに見えたから、言葉は、自然と出ていた。
「キレイです」
 途端に、お姉さんがじとりと半眼になってこちらを向いた。
「おためごかしなんか要らないわよ」
 わかってる。気休めなんてこの人は求めていない。だからこれは、私の本音だ。
「お世辞なんかじゃありません。あなたはこうして私を慰めてくれた。今のご時世、そんな事は、心根のキレイな人じゃあないと、できません」
「そうやって油断させて、後で襲うかもしれないでしょ」
 唇を歪める彼女に向けて、ふるふると、今度は首を横に振る。
「もし本当に、都市伝説通りのあなただったら、最初に出会った時に、私の泣いた理由なんて気にもしなかったはずです」
 そう。美醜で言えば決して美に恵まれなかった彼女は、昭和時代、恐怖を振りまいた。だけど、この平成の三十年は、彼女の心の内を変えるのに充分な年月だったのだ。
「……あんた」
 ふっと。お姉さんが微笑む。
「本当にいい女だね。クソ男なんかにフラれて正解だよ。あの頃に、あんたみたいな友達がいたら、あたしも」
 その後は、ぼそぼそぼそ、っと囁くような声量だったので、彼女が何と言ったかは聞こえなかった。だけど、彼女を満足させるには充分な言葉だったらしい。私から手を離して立ち上がると、空になったラムネ瓶をごみ箱に突っ込み、肩越しに振り返る。
「今はまだ無理かもしれないけど、元気、出しなよ。昭和生まれ同士、頑張ろう。きっといつか、あんたをきちんと見てくれる相手が、見つかるからさ」
 言い終わると、彼女はマスクをかけ直し、歩き出す。と、いつの間にか公園の出口に、ホッケーマスクをかぶった大柄な男性が立っていた。お姉さんは嬉しそうに目を細め、その巨漢に駆け寄り腕を絡め合うと、夜の闇に消えてゆく。

 夢、だったのだろうか。

 そう考えても、私の手の中に飲みかけのラムネ瓶はたしかにあって。お姉さんが撫でてくれた手の温度もはっきりしていて。
『元気、出しなよ』
 優しさを込めた声音は、耳の奥で反響している。
 ぐしぐしぐし、と。頬に残る涙を拳で拭って、残りのラムネを飲み干す。
 元気になろう。頑張ろう。明日はきっと、いい事があると信じて。自分を見つめてくれる相手を見出した彼女のようになれると信じて。

 ひとつの時代が過ぎ去る。
 それでも彼女は、こうして自信を失くした女性の前に現れて、少し乱暴な言葉で、でも心遣いは温かく、背中を押してくれるのだろう。
 きっと、次の時代でも。