『青の戦慄』

どんな華やかな繁華街も、一歩路地裏に入れば、暗闇と犯罪が跋扈する。
月明かりさえ薄くしか届かない暗がりに転がり込んだ男は、はあはあと呼吸を整えながら、己の手にしっかと握り続けた紙幣の感触を確かめ、それを目の高さにまで掲げて、口元をいびつな笑みに歪めた。
快感だ。
男なら、血を吐いて立ち上がれなくなるまで打ちのめし、女なら、めちゃくちゃにしてやって。
金を奪い、そして、生命を奪う。
他人の生殺与奪の権利が自分の手中にあるのが、楽しくて楽しくて、やめられない。やめてやるものか。
捕まらない、現場から逃げ切る自信はある。
万一足がついたとしても、司法が自分を裁く事など、決して出来やしない。
政界に大きな影響力を持つ父親が、全てをもみ消す。大量の金さえあれば、所詮相手は人間、心など簡単に動き、正義は曲げられる。
ざまあみろ、誰も俺を裁けやしない。
けけけとひきつれた笑いを漏らしていると、かつ、かつと、女物の靴が地を叩く音が、耳に届いて、男は音の方に顔を向ける。
こんな夜更けに、しかもこんな、人目の無い場所に入り込んで来るなんて、自分から厄介事に巻き込んでくださいと言わんばかりに間抜けな女だ。望み通り、手にかけてやろうじゃないか。
男は期待し、しかし、わずかな月の光に照らされたそのシルエットを目にして、見込み違いに、眉間に皺を寄せた。
影はヒールの高い靴を履いてはいるが、小柄な、明らかに幼い少女のものだった。
徘徊している孤児か? ならば、犯りがいも殺りがいも、全く無い。
興味を失って、追い払うのも億劫で顔を背け、だが、違和感を覚えて、男は再度、少女を振り返った。
少女は真っすぐに自分を見つめている。そう、見つめているのだ。
月は逆光で、少女の表情をうかがい知る事は出来ないはずなのに、わかるのだ。
その瞳だけが、暗がりの中で青く光り、自分に向けられている事で。
途端に、男の背中にぞくりと怖気が走り、手から、はらはらと金が舞い落ちる。
「闇から闇へと逃れる、卑怯なる殺人者」
少女の口から、身長に違わない、しかし、愛らしさというものを全く廃した声が零れると同時、ひゅっと何かが風を切り、一瞬後、ごつりと音を立てて、男の足元に、質量を持った何かがふたつ、転がった。
視線を落とし、そして男は、自分の肘から先が消失している事に気づいた。愕然として、のろのろ地面を見れば、そこに最前まで繋がっていたはずの、己の腕が、あった。
認識した瞬間、たちまち、言葉で表現しきれない激痛と恐慌が襲い来て、絶叫が喉から迸った。
青い瞳はなんら感情を宿さず、自分を見つめていた。その手にはいつの間にか、少女の身の丈以上もある、剣呑な鎌が現れている。
「人が裁けぬなら、我らが命を奪うまで」
同情も侮蔑も怒りも、いかなる感情も存在しない声が、言葉を紡ぎ出す。未曾有の恐怖感に包まれた男は、その場から逃げ出そうとする。だが、それより速く鎌が一閃し、今度は膝から下が宙を舞って、男は無様に地面に倒れ込み、強かに顔面を打ち、歯が折れ鼻血を吹き出した。
かつ、かつ、かつ、と。戦慄が音を伴って近づいて来る。
「た、助けてくれ……」
男は懇願した。
「悪かった、俺が悪かった。だから、命だけは……!」
青く光る瞳が、見下ろしてくる。無慈悲に、無感情に。
男は、屠殺される家畜の気分を味わい、脅威に怯えた。
少女を形容すべき、ひとつの単語が、脳裏をよぎる。
だが、そんなはずは。
「死神が、青い目なんて」
その青い瞳が、すっと細められる。
「死神が黒ずくめと、誰が決めたの」
断末魔の悲鳴が路地裏に響き、そして夜の闇に吸い込まれ、やがて反響も、消え失せた。

ヒュウ、と、軽い口笛と。
「さっすが。相変わらず容赦ないねえ」
どこかふざけた調子の言葉に、少女は鎌を闇に還し、声の主を振り返った。
「死神の鑑」
短い茶髪の頭の後ろで手を組み、ぶらぶらと歩み寄って来る、彼女より年上に見える少年の瞳は、やはり、光る青。
世に「死神」と呼ばれる彼らの、その証。
突然命を落とし、その死を受け止め切れなかった者。或いは、とてつもなく理不尽に命を奪われた者。
そんな人間の魂を、彼らが天に昇る前に、死神の長は呼び止めて、骸骨の面の下から、問いを放つのだ。
その無念、刃に変えて振るう気は無いか、と。
かくして現世にとどまった魂達は、青い瞳と、人を超越した力を得て、命を刈る。
法で裁けぬ悪、追跡の手をかいくぐって逃げ続ける悪。人間では捕らえられぬ、死神の長が、この世に不要と断じた者の命を。
死神と成る代償は大きい。途中でその役目を放棄したいと望んでも、または、任務の途中で、修復が不可能なくらい心身に損傷を受けてしまっても、天に還る事は許されず、転生する事も無く、ただ、果てしない無が、待つのみだ。
それでも死神への道を選ぶ者が後を絶たないのは、この世があまりにも、許しがたい悪に満ち満ちているからだろう。
少女も、そう思う一人だ。
来世を棄ててでも、復讐を果たしたい相手が、居る。
10歳の誕生日に、父を、母を惨殺し、シュスカ・ブリングと云う少女の命を奪い、まんまと逃げおおせている、両親の、そして、少女自身の、仇。
奴の命を刈り取るまで、死神である事をやめる訳には、いかない。
「シュスカ、行こうぜ。もうここに用は無いだろ」
物思いに耽っていた少女に、少年が声をかける。はっと我に返った少女は、無言でうなずき返し、少年と共に、たんと身軽に地を蹴って、舞い上がる。
二人の姿は夜闇にかき消えるように溶け、後には、人に裁かれず、神に裁かれた無残な死体だけが、路地裏に、残った。