『其は恋ひしき白薔薇の』

 それは、荒んだ日々の中に突如出現した、満ち溢れた光の楽園。
 幻想的な白薔薇の咲き誇る広い庭の中で、恋唄を奏でる、美しき少女の姿は、幼い瞳に、心に衝撃を与えた。
 底辺で生きる孤児には、隔てる柵よりなお分厚い壁が立ちはだかって、手の届かない、天上人。
 緩やかに波打つ銀糸のような髪。風吹き抜ける草原よりなお碧い、陽を受け翡翠のように輝く瞳。この世にあらざるもののような音階を紡ぎ出す、美しきメゾ・ソプラノ。
 街一番の貴族の令嬢の姿を借りて、地上に舞い降りた天使を、偶然目にして以来、毎日毎日、孤児院を抜け出しては、柵越しに見入った。
 院のシスターは、何事にも、
「神に感謝の言葉を述べましょう」
 と言ったものだが、自分が祈りを捧げるべき相手は、彼女ただ一人だと。
 幼心に鮮烈に焼きついた、記憶。

 子供の夢想を、現実に変えるべく、がむしゃらに生きた。
 彼女に近づけるように。釣り合う事は望まない。ただ、傍で彼女を見守れるように。
 国内屈指の騎士への階を駆け上がり、夢物語だった話に、手が届く場所まで到達した時、しかし光差す庭に、彼女は居なかった。
 自分が騎士を目指して、王都で教養と訓練を積む事に夢中になっている内に、街一番の裕福な家柄は、当主を流行り病で亡くし、家を継ぐ男子も無ければ、没落してゆくのは、瞬く間だったと云う。
 使用人は一人、二人と屋敷を去り、手入れされぬ庭は、荒れ果てた。
 やがて母も亡くし、親族の援助も得られなかった令嬢は、後見人と云う名の、年老いた貴族の元へ嫁ぐしか無かった。
 どんなに体裁を繕った言葉を並べてみても、それは間違い無く、身売りだった。

 すっかり錆びて、がたついた門扉をくぐり、柵の向こう側から眺めるばかりだった庭に、初めて足を踏み入れる。
 背の高い雑草が無造作に生い茂る中、ふと気づいて視線を落とせば、目に入ったのは、白い薔薇。
 主を失い、調える者が居なくなっても、あの頃と変わらぬ美しさを魅せる花。
 ひとつ、手折って、くちづける。彼女の可憐な姿を思い返しながら。
 そして恋う。
 貴女に会いたい、会いたいと。
 男女は逆だが、彼女がさえずっていた、恋唄のように、乞い願う。
 名前さえ知らなかった、天から降り立った御使い。
 いつか、会えるだろうか。救い出せるだろうか。
 その為の地位も力も、今はこの手の内に有る。
 果たした末には、その愛らしい唇から、名を伝えてくれるだろうか。目映いばかりの笑顔を、向けてくれるだろうか。
 願わくは、この庭を再び蘇らせ、白薔薇の咲き乱れる中で。